信長、秀吉、家康の時代、寒川に2人の侍がいました。(注1)
倉見の高木清方と田端の大森(菊地)泰次(やすつぐ)です。
1529年 |
1534年 | 1537年 | 1542年 | 1582年 | 1598年 | 1599年 | 1610年 |
1616年 |
大森(菊地)泰次(田端) | ||||||||
高木清方(倉見) | ||||||||
織田信長 | ||||||||
豊臣秀吉 | ||||||||
徳川家康 |
高木清方は織田信長と同じ年に生まれています。
高木清方は、天正19年(1591)、57歳の時、徳川家康の旗本となり、領地680石余を得た際に倉見の領主となりました。
高木清方は、倉見の領主になる10年以上前{天正7年(1579) } に行安寺を開いています。
倉見には、高木清方ゆかりの、陣屋跡、行安寺、墓が残っています。
大森(菊地)泰次は、明応4年(1495)、北条早雲に奪われるまで小田原城主だった大森氏の末裔です。
北条方に知られるのを避けるため、母方の姓である菊地姓を名乗った、という説があります。
大森(菊地)泰次は、文禄5年(慶長元年 1596年)、67歳の時、小田原の文賀を招き、生往寺を開創しました。
また、翌、慶長2年(1597年)、家来の秋元金平に車地蔵を建立させています。
一之宮と田端に大森(菊地)泰次ゆかりの、車地蔵、生往寺、墓が残っています。
大森氏(菊地)の系図の一部
─ | 氏頼 | ┬ | 実頼 | ─ | 康頼 | ─ | 泰次 | ─ | 泰定 |
└ | 藤頼 |
氏頼:小田原城主。
実頼:父氏頼に先立って死す。
藤頼:明応4年(1495)、城主の時、伊勢盛時(いせ もりとき)(北条早雲)に攻められて小田原城落城。
康頼:甲州にて没。
泰次:慶長15年(1610)没
泰定:寛永15年(1638)没
当時の出来事を年代順に眺めてみると次のようになります。
年 | 寒川の出来事 | 日本の出来事 |
1581年(天正9年) |
高木清方(47歳)、行安寺開創。 |
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1590年(天正18年) |
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小田原征伐(豊臣秀吉が大義名分によって後北条氏を征伐し降した)。 |
1591年(天正19年) |
徳川家康の旗本、高木清方(57歳)、倉見を領す。 |
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1596年(文禄5年) |
大森(菊地)泰次(67歳)、小田原の文賀を招き、生往寺を開創。 |
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1597年(慶長2年) |
大森(菊地)泰次(68歳)、秋元金平に車地蔵建立させる。 |
慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争) |
1600年(慶長5年) |
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関ヶ原の合戦 |
1603年(慶長8年) |
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徳川家康が江戸に幕府を開く。 |
注1:寒川にいた侍
勿論、この2人以外にも侍はいました。
この2人はウォーキングコースで遺跡を見ることができます。
[参考資料]
・寒川町史 10 別編 寺院 平成9年11月1日発行
・寒川町史 11 別編 美術工芸 1992年発行
・寒川町史 13 別編 事典・年表 平成14年3月31日発行
・寒川町史 調査報告書 9 -近現代の石造物- 平成11年3月31日発行 寒川町史編集委員会 編集
・寒川の文化財 寒川町教育委員会 平成14年3月発行
・さむ川 その昔を語る 第3集 寒川町郷土研究会編 昭和56年3月1日
・相模国高座郡南部地蔵24札所巡り 池田銟七 平成3年 (分類-387)
・新訂 寛政重修諸家譜 第11 昭和40年5月30日発行 p320
↑ Language
Last Update : 2020.2.18